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2017年04月30日

2666(ロベルト・ボラーニョ/白水社)



・850ページを超える分量。しかも二段組。

・謎の作家をめぐる、重層的なストーリー。

・読書に辛抱強い人向けの本。

おススメ度:★★★★☆


(はじめに)チリ出身の作家ロベルト・ボラーニョの遺作である本書は、最高傑作という触れ込みのようですが、この作家の著作をはじめて読んだ私でも、なるほどその通りだろうと、思わせるものがありました。

(あらすじ)謎のドイツ人作家アルチンボルディをめぐる長大な物語。謎といっても、その存在が疑われているわけではなく、ノーベル文学賞候補にもあがっているほどの人物で、ただなかなか一般に姿を現さないだけ。第一部はまず、このアルチンボルディを研究する四人の男女が出会い、彼らがアルチンボルディの存在を追って、メキシコへと向かうまでがえがかれます。四人をめぐって叙述される恋愛と友情のストーリーだけでも、一冊の長編が書けるくらいです。

物語は、メキシコ人哲学者に関する部へと移り、その後アメリカからボクシングの取材に来た黒人記者が、その哲学者の娘と出会い、アメリカへと向かうところへとつながっていきます。ここでは、人物紹介と、メキシコで起こっている、あるおそろしい事件の一幕が、示唆されています。

そして、次こそが本作で一番問題を含んでいて、異質な存在感を放っている「犯罪の部」です。メキシコ北部にある架空の都市サンタテレサで起こった、連続殺人事件の記述がなされます。被害者は何処に住む何という名前の女性で、彼女らは、いつ、どこで、どのように強姦され殺害され遺棄されたかが、犯罪記録のように延々と克明に描写されるのです。また、それらの事件に関わる捜査官や警官や様々な人物が登場し、この「犯罪の部」だけで250ページを超え、正直読むのに非常に骨が折れました。ちなみに、サンタテレサのモデルになった実在の都市があり、そこでも同様の殺人事件が多発していたそうです。

最後の章で、いよいよアルチンボルディの正体と、彼がなぜメキシコに来たのかの理由が明かされます。本書の後半は、ほとんどが彼に関しての生い立ちから、出会った人達との関連事に費やされるのですが、この本を挫折せず読んできて本当によかったと、心から思いました。「犯罪の部」における読書の停滞が嘘のように、一気に読み進むほどの感動がありました。なるほど、これほどの分量になるのも仕方ないと思いました。一人の文学者(単なる文学者ではなく、大戦とその後を生きた証人)の生涯を、世界を未だに覆う暴力や悪などをからめて、ひとつの書物(これも作品のキーワード)にしようとしたら、 これでも足りないのではと思えるくらいです。ほんま、おそろしい本です。

遠い彼方を目指す旅への一歩や、目的地の見えない旅路のはじまりに似て、本書を手に取った出だしは、あまりの遥かな道のりに気後れしつつ、些少の歩みを繰り返すのみだったのが、道中出会った奇妙な動物の戯れや、奇怪な植物の群生に目を奪われるうちに、旅の流れが次第に身にまといつくように、ページページに散りばめられた人物や出来事に沈みこんで、抜け出せなくなり、いつの間にか最後のページへとたどり着いていた感覚でした。

休暇がとれたので、何か長編でも読みたいという人や、一年に一度は長い作品が読みたいという人や、とにかく長編が大好きという人におススメの一冊です。
(成城比丘太郎)





(楽天)






posted by 北川商店 at 08:00| ★★★★☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

茄子 スーツケースの渡り鳥(黒田硫黄:原作/高坂希太郎:監督) 〜無限の住人との比較・感想




・茄子 アンダルシアの夏の続編映画

・原作の良さをさらに伸長

・経済と芸術について深く考えさせられる

おススメ度:★★★★✩


前日の「映画 無限の住人」について、改めて思い返してみたが、やはり、三池監督(あるいは脚本家大石氏)は、大事なところを見誤った。原作が長大なのだから、物語を剪定するのは必須の作業だ。ただ、その作業に情熱がない。あるいは、全く心が籠っていない。

「別の木でこう剪定したら上手くいったから、この木でも同じ方法でいいよな?」という慢心が見て取れる。その「手抜き」は何の為だ。体調が悪かったのか? やる気がなかったのか? ジャニーズに気を使ったのか? あるいは金を得て生活がしたかったのか? それとも必要な予算がなかったのか? 何か理由を言って見るか?

プロだろ、言い訳はしないよな。

一番許せないのは「無限の住人」が死にかけるということだ。原作では、主人公の万次が本当に死にかけるのは2回だけ。その一つは映画でも取り上げられているが、もう一方は再現はされていない。最初の「死」が禍根を残したという描写もないのだ。一回でも通読すればわかる。万次が「死ぬ」のは異常なことで、逆に死ななない事が前提でプロットが積み上げられていくのだ。主人公が死なないからこそ成立する物語だ。

とにかく、万次が「死ぬ」のは前提として間違っているのだ。一応、映画でもそれらしい理由を付けて「映画的スペクタクル」を求めているが、失敗だろ。失敗してるだろ。閑馬永空のエピソードまで読んでそのあとは「オタク臭い漫画だからどうでもいい。俺がやったほうがうける」と思ったんだろ。ラストのセリフは何だ。あんな受け狙いの安っぽいセリフで締めくくって満足か? 自分で1800円の金を払って観る気になるのか?

「無限の住人」というタイトルの主人公が無限に住まなくてどうする。原作のラストを読んだか? 原作ではちゃんと「無限の住人」として、辛くも美しい結末を迎えているのだ。もう一度言う。映画のスタッフは、誰か一人でも、原作のラストを読んだのか?

ここでようやく「茄子 スーツケースの渡り鳥」の話題に入る。これの原作は非常に短い。週刊漫画の連載で言えばほぼ一回分(24P)に過ぎない。だから、映画版のヒロインは出てこないし、おそらくパンターニ(Wiki)をモデルとした冒頭のシーンもない。だが、これは必要だから足したと分かる。この追加のおかげで、粋な漫画が、粋な映画として再誕できた。ただ、ヒロインの弟はさすがに蛇足に思えた。だから★は一つ減らした。

原作と比べてみればわかるが、ヒロインはともかく、ザンコーニがらみのエピソードは、非常に分かりやすく原作から翻案されている。レースのシーンも、ロードバイク好きでも納得できるクオリティだ。実写とアニメは違うと言い訳するかもしれないが、これが正しい「映画化」の例だ。

原作者のアイデアに映画監督が更に面白いアイデアを追加する。原作者と監督が笑顔で議論している光景が見に浮かぶ。「無限の住人」にはそれがない。原作者は「まあ、こんなもんさ」という苦笑いを、監督は「最低限の仕事はしましたよ」という職業的微笑を、木村拓哉は「私は精一杯やりました。それはわかるでしょう」という怒りを込めた自戒と弁解をしているシーンが目に浮かぶ。

こんな企画、誰かが止めれば良かったのだ。

でも、三池監督、

仕事は楽しいかね?(過去記事)」。

人間だから生きていくために仕事は必要だ。映画という仕事もあるだろう。ただ、三池監督は本当に映画を撮りたいのか? そこがどうしても信じられない。

この仕事を見る限り監督の仕事は「役所であちこちから回ってくる書類に中身を見ずにハンコを押している上司」そのものだよ。真実そう思う。俺が現場の雑用でも同じことを言ってやる。それでクビにするならするがいい。そこで、雑用の私も上役の器量を図るのさ。

世の中には、担ぐ価値のある神輿と、その価値のない神輿がある。

残念ながら。
(きうら)







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posted by 北川商店 at 03:44| ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする