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2018年02月24日

からかわれ上手の西片くん(アニメエッセー)



『からかい上手の高木さん』というアニメを何の気なしにチョロチョロ観ている。中学生の高木さん(女性)と西片くん(男性)のギャグラブコメディである。これは、西片くんが隣の席に座る高木さんにいつも「からかわれる」という内容で、西片くんも高木さんにやり返そうとするが、最後は高木さんにやり込められる(からかい返される)。というか、西片くんは高木さんを「からかおう」とするのだが、「からかい」にすら至っていない(高木さんにはお見通し)。最近の回は高木さんに「からかい」返すというより、もうすでに高木さんに手玉にとられてまくって、客観的には微笑ましいカップルがイチャコラしているだけである。

まあそれだけなら何てことのないラブコメディなのだが、ひとつだけ怖い「からかい」があった。その前にちょっと感想を言うと、普段は、西片くんがマヌケすぎることもあって、そんなんに引っかっかるなよとも思うのだが、自分の中学生時代を思い起こすと、これはいたしかたない。ふつうの男子中学生は女子がこんな具合にちょっかいを掛けてきたら、まあ勘違いするよなってかんじになるかなぁ。しかし、西片くんはまだはっきりと「高木さんって、自分に気があるのでは?」と確信していないようだが、もし少しでもそう思ったのなら立場は逆転思想。そして、ここで怖いところだが、基本はかわいい「からかい」なのだが、一度だけ掃除当番を任せられた西片くんのことを、高木さんが「掃除用具入れ」の中で待ち伏せていたことがあり、西片くんが驚いた様子を笑っていたのだが、私はもし気になる女子に中学生時にそんなことをされたら、おそらく一瞬にして熱が冷めるだろう。じっと用具入れで待っている高木さんの姿を思い浮かべると、なんか怖さを感じた。それ以来高木さんが何か企んでそうで(企んでるが)、彼女の瞳に狂気を見るようになった(錯覚)。

『100%片想い』という劇中少女漫画が出てくるが、ここでいう「片想い」とはだれのだれへの想いなのだろう。高木さんが西片くんに「(西)片(へ)想い」なのか、実は西片くんだけが高木さんのことを気にしているという状態、つまり「(西)片(だけの)想い」なのか(まあ、でも、高木さんが西片くんを好きであるというのは間違いなさそうふぁから、両想いか)。もし後者なら、この漫画は全部西片くんの妄想ということになるが。この少女漫画を読んでいることを西片くんは高木さんに知られたくないということからすると、西片くんがだれかに「片想い」をしていることを当の相手に知られたくないという無意識の抵抗だと考えても(西片くんは高木さんの恋心を知らない)、恋心を含めてすべては高木さんの手のひらの上だということになる。それとも、やけに『100%片想い』にこだわる高木さんは、西片に自分の想いをそれとなく伝えているのか。

ここでちょっと作品のウィキペディアをみてみたら、どうやら将来の展開がどうなるかスピンオフとして漫画化されているよう。二人がどうなるかはネタバレになるのでここでは書かないが、そこまで至る前に、すなわち学生時代にふたりが最終的にどうなるのかを暇だから考えてみて、以下に簡単なやり取りとして会話にしてみた。

《高木さん》:ねぇどうしたの、西片?こんなところに呼び出して。
《西片くん》:いや……あ……あのさぁ。
《高木さん》:うん、どうしたのかなぁ、顔、真っ赤だよ。
《西片くん》:え……ええと……その、高木さんはさぁ……
《高木さん》:わたしがどうしたの?
《西片くん》:いや……違くて、俺は……実は……高木さんのことが……
《高木さん》:わたしのことが、ってねぇ、ほんとに汗がすごいよ。暑いの?
《西片くん》:暑くないよ、っていうか、それはどうでもよくて、実は!
《高木さん》:実は?
《西片くん》:実は、俺は高木さんのことが、suki……
《高木さん》:えっ?ちょっと何言ってるのか聞こえないけど。ほんと顔が変だよ、暑いの?
《西片くん》:いや、あついけどさ、ってきちんと言うけど、俺は本当は高木さんのことが……
《高木さん》:もしかして、わたしのことが好きだって言うの?
《西片くん》:へっ、いや、その……
《高木さん》:じゃあ、違うの?
《西片くん》:いや、違わないけど……って、あれ、それ俺の方から言うつもりだったのに……
《高木さん》:へぇ、そうなんだ。西片って、わたしのことが好きなんだ。
《西片くん》:何だよ悪い。そうだよ、高木さんのことが好きなの。
《高木さん》:ふうん、で?
《西片くん》:えっ?
《高木さん》:うん、それで、どうしたいのかな、西片は?
《西片くん》:どうしたいって、その……いろいろと……
《高木さん》:いろいろと、わたしと一緒に学校から帰りたいとか?
《西片くん》:いや、それはしてるでしょ。そうじゃなくて。
《高木さん》:じゃあ、一緒の高校行きたいとか?
《西片くん》:もちろんそれもあるけど。
《高木さん》:それじゃあ、勉強頑張らないとね。
《西片くん》:うんまあ、それはいいとして……ええと……俺と、付き合ってほしいんだけど……。
《高木さん》:うん、どこか行くって、それはいつもしてるよね。
《西片くん》:そうじゃなくて、って、いつまでこのやり取りするのさぁ。
《高木さん》:アハハ、ごめんね。で、付き合ってどうするの?
《西片くん》:それはさあ、あの中井くんたちみたいに付き合うってこと。
《高木さん》:そうなんだ、じゃあ、恋人みたいになるってこと?
《西片くん》:いや、その、そこまでは言わないけど、でも、そんなかんじかなぁ。
《高木さん》:ふうん、そうか、そうなんだ。じゃあ、答えるけど……
《西片くん》:う……うん。
《高木さん》:答えは……わたしは、西片のこと、好きじゃないんだ。
《西片くん》:えっ……高木さんは俺のこと好きじゃないの?
《高木さん》:うん、好きじゃない。
《西片くん》:じゃあ、きらいなの?
《高木さん》:きらいではないけど、好きじゃない。
《西片くん》:ええ、そんなぁ。高木さん、俺のこと好きじゃなかったの。みんな、そうだって言ってくれたのに。
《高木さん》:好きじゃないよ、でもね……
《西片くん》:でも……?
《高木さん》:わたしは、実は、西片のこと、大好きなんだ。
《西片くん》:えっ?だ……だいすき?
《高木さん》:そう、好きじゃなくて、だいすき……フフフ、どうしたの西片。顔、真っ青だよ、寒いの?
《西片くん》:寒くないよ、って言うか、何それ、ああ、また高木さんにしてやれれた、って、俺の方からきちんと好きって言うつもりだったのに。
《高木さん》:アハハ、やっぱり西片っておもしろいよね。

とまあ、ここまで書いていてアホらしくなってきたので、ここでやめます。原作を読んでないので、もっと関係は深まってるかもしれませんが、まあ、中学時代にこんな女子がいたらちょっといやかもしれんけどうらやましくはあるが、勘違いした男子が玉砕するってのが現実なんだがなぁ。

(成城比丘太郎)








posted by 北川商店 at 11:05| エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

死について 〜死んだらどうなるかの個人的考察

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人は死んだらどうなるのか? これは誰もが一度は思う疑問である。このブログを読まれる皆さんも一度は考えられたことはあるのではないだろうか?

私は幼い頃は単純に天国と地獄があって悪いことをすると地獄に落ちるという例の「閻魔大王」的ストーリーを信じていた。これには祖母の話や、幼少期に読んだ水木しげる先生の「妖怪大図鑑」などが影響していると思う。また、昨今、著者が懺悔していたが、ノストラダムスの大予言なども信じていて「全員死んだらどうしよう」と思ったのが、小学3年生の頃であった。

その後、私は無知蒙昧を武器にオカルトに傾倒し、中学生の頃はひそかに雑誌「ムー」などを購入し「物の腐らないピラミッド」や「幸せになれる呪文」などを実行する純朴でイタイ少年であった。まさに黒歴史そのものである。しかし、その根底には、人間は死ねば地獄か天国に行くという単純な世界観は一貫していた。

高校になると流石に知恵がついてきて、他者との差異を明確に感じるようになると、なぜこのように世界は成り立っているのかを考えるようになった。そうなると、これまでの「天国-地獄」理論は崩壊することになる。どう考えても世界は物質的なもので構成されており、その時すでに脳の働きもある程度解明されていたからだ。科学という実証可能な世界では、精神・宗教的な「天国-地獄」は存在理由を失い、同時に超常現象に対する私の熱意も急速に冷めていった。つまり「起こらないことは起こらない」のである。

私の仏教観を崩壊させたのは、大好きだった祖母の一周忌の酒宴の席であった。そこにきた坊主が酒は飲む、料理は食い散らかす、笑顔で喚き散らすと、俗人の塊のようで、こんな人間に拝まれても祖母は(仮に天国があったとして)絶対に報われないな、と思ったからである。

ただし、仏教やキリスト教を含む宗教を否定するわけではない。私はこれは生きとし生ける人間の魂の救済装置だと考えている(支配装置ともいえるが)。よって単純にまとめれば「信じる者は救われる」のであって、今現在、宗教を信じておられる方を否定するものではないし、むしろうらやましく思う。

そうして私は大学生になり、たくさんの本を読んで、通俗的な唯物論を信奉するようになり、死後の世界を信じなくなってしまった。敬虔と教義を捨て、一見科学の世界に身を投じたように見えて、実は信心という重要な精神構造を失ったのである。これによって、孤独に打ち勝つすべを失い、その後20年に渡って罰を受けることになる。今でも孤独には防御力がない。これは「信じるもの」がないからだろう。

これは簡単に言えば「神」の喪失である。神がいなければ、天国も地獄もない。即物的で空虚な世界である。まだ、死んでから天国で憩えると考えられる方が何倍もマシだ。

そして、本題に戻る。「死んだらどうなるか?」

私は、死んだら単純に消滅すると考えている。基本的にはこの文章を書いている頭脳の働きも微弱な電流の反応であるから、そのエネルギー源が断たれれば、消えるしか無かろう。天国にも地獄にもいかない。怪談で、「死ぬ瞬間の恐怖が一生続く」というのを読んだことが在るが、そうであるなら、その恐怖を見せる「微弱なエネルギー」が世界中に溢れているはずであり、それもない。

結局、よく言われるように死後の世界は生きている人間にしか存在しないのである。もちろん、死んだことがないので、何か特別なメカニズムで「幽霊」として生きることはあるかも知れないが、それなら、日本では130万人も一年で死んでいるのだから、世の中は幽霊だらけである。戦後だけをとっても7000万人の死者、これまでの累計や、世界的な統計を取るのであれば、世界は幽霊や亡霊だらけであろう。

「だから」という話をすると、結局、今生きているこの状態が全てであるのだから、スティーブ・ジョブズが言ったように「今日があなたの人生最後の日だとしたら、今日と同じ行動を取るだろうか」という気持ちをもって生きないといけないということだろう。それも分かる。神無きものにとって信奉すべきは自分の「現在」であり、それを信じ、それに賭けねばならない。結果はどうでもいい事だ。末期は上記の通りであろうから、いくら財を築こうが、酒池肉林の日々を送ろうが、微弱な電流の変化に過ぎないのである。

そして、今、私は公私ともに苦境にあるが、見方を変えればこれで「当然」なのであり、別に嘆く必要もないのである。先日、うまくいかないことがあって落ち込みかけたが、よく考えてみると上手くいかないことばかりなので、今更落ち込むのも変な話だ。それを淡々を受け入れ、今を生きるべきなのだ。

そして、私の今思うささやかな望みは、死んだあと「とても涼しい公園で、私の好きだった人や友人や家族と、ベンチに座ってどうでもいい話をすること」「夢(悪夢)を見ない完璧な眠りを与えてもらうこと」「できれば天国で仲間たちと競馬を楽しみ、小説を書きたいこと」。天国の競馬にはさぞや豪華なメンバーが走っていることだろう……

と、いうことを死ぬ瞬間に「一瞬だけ信じられれば」それでいい。今、私は、それ以外は何もいらない。本当にお金も健康もおいしい食べ物も何もなくていい。死の直前に真っ青な晴天と美しい公園が頭を掠めてくれればそれでいい。天国もいらない。そんなのは幻だ。死んだ知人たちに拍手で迎えられることもないだろう。

もっと言えば悪夢を見ずにひたすらゆっくりと眠りたい。目覚めなくてもよい。それは「死」なのか、それとも?

(きうら)




ラベル:きうら エッセー
posted by 北川商店 at 07:27| エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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