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2017年12月03日

アウグスティヌス(出村和彦/岩波新書)〜シリーズ読書メモ(10)



「心」の哲学者アウグスティヌスについて

大雑把なまとめです

オモシロ度:★★★★☆


アウグスティヌスの生涯が簡単に分かる本です。たまに昔の人のことを読んでいると、この人は本当にこの世に存在していたのだろうかと思ってしまうことがあります。アウグスティヌスもそのうちの一人でした。本書を読むと、ローマ帝国末期に北アフリカで生まれたアウグスティヌスという人物が浮かびあがります。アウグスティヌスの一生は思想(思索)と絡み合っています。キリスト教(聖書)への不満からはじまり、キリスト教批判への批判に終わるまでの人生です。

アウグスティヌスは母モニカの影響でキリスト教に近付くも、聖書にあきたらないものを感じ、マニ教に向かいます。この頃のマニ教徒は、自分たちこそ真のキリスト教徒といっていたようです。その後アウグスティヌスは、紆余曲折を経てローマ、そしてミラノに向かうことになります。この頃彼は、伴侶と別れています。驚いたのは、当時、女性なしに過ごす自信が彼にはなかったということです。ただアウグスティヌスにとって、情欲それ自体よりも、そのことに同意する自分の意思が問題であったのです。マニ教的な考え(=性や肉体そのものを蔑視する考え)を脱して、「キリスト教への回心」に向かうアウグスティヌスが求めたのは、「神のことば」を真に理解する「心」という自己でした。彼の宗教的な理解は、知的なものとともに「心に響く感性を兼ね備えている」ものでした。「心」とは、(プラトン派から読みとった、自己の内面性という空間からくるもので)それを通して超越者へと向かう回路のことです。

アウグスティヌスには、現在までに膨大な数の著作や書簡等が遺されています。それだけ同時代からのアウグスティヌス評価が高かったことの証左だということのようです。その中で、『告白』は最も有名な著作です。この作品は、「過去の打ち明け話」に類するような回顧談的なものだけではありません。アウグスティヌスにとって『告白』は、「弱い自分への神からの無償のあわれみとゆるしに感謝し、そのような恵みをもたらす神の偉大さを賛美することである。」ようです。

本書後半部分について簡単にまとめますと、アウグスティヌスの様々な論戦がすごいということです。悪と自由意思をめぐるマニ教への論駁を経て、後半生はドナトゥス派との戦いやペラギウス派との論争が繰り広げられます。

ところで、富松保文『アウグスティヌス―<私>のはじまり』(シリーズ哲学のエッセンス)では、アウグスティヌスの生きた時代に、個人の「自我(内省的な意識)」がうまれたという説を紹介しています。アウグスティヌスの自省的な意識が「内」へと沈むものの、それは閉じた世界ではなく、「外」との差異で発見されるものであるようです。「内/外」は通じているのです。その「内」のはじまりは「内」であることを超えています。なぜなら「内」のはじまりは、どこまで突き詰めてみても捉えられないからです。そうして「内」を超えたところに「神」をみることになるのでしょうか。(No.008-Seijo)

(成城比丘太郎)




アウグスティヌス 「心」の哲学者 (岩波新書) [ 出村和彦 ]







posted by 北川商店 at 00:00| ★★★★☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする