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2018年01月12日

理想と現実(えせエッセー)



『神のみ』こぼれ話。

桂馬の理想(二次元)と現実(三次元)。


本サイト(1/3付け)において書いた『神のみぞ知るセカイ』感想記事のこぼれ話というか、書ききれなかったことを記したいと思います。

桂馬において理想(二次元)と現実(リアル―三次元)は峻別されているようです。彼が両者の差に絶望しているといっても、現実から目をそらして理想のみを追っているわけではありません(桂馬自身は、自分が理想だけを見ていると思っているようですが)。もし理想主義的な傾向が強いとしても、けっして現実とのバランスを崩しているわけではありません。そのことは、彼が〔苦しみながらも〕現実の生活を送っていながら、理想とそれとのあいだに平衡をきちんと保っているのを見たら分かります。桂馬が現実に絶望しているのは、それを知悉している〔と思いこんでいる〕からです。つまり、彼は現実の基盤上に理想の生活をおくりながらも、また一方で理想を極めようと徹底した現実〔という観念の〕排除をするからこそ、反転して、現実がどういったものであるか分かるのです。

むしろ現実(←桂馬が言う)に生きている人間こそ、時に理想を語り、時に現実へ沈滞し、曖昧な折衷主義を〔無意識下に〕標榜し、彼からすると場当たり的な生き方しかしていないように見えて、そこが現実への絶望を彼に促しているのかもしれません。桂馬の理想主義は、けっして現実逃避の裏返しではありません。彼はきちんと理想と現実との間に線を引いて、理想に足を踏み入れながらも、現実を見据えているのです。桂馬以外の人間が生きる世界は、理想と現実のバランスがとれなくなってしまった〔現実に生きていると思っている〕人間たちがとる、一時的な理想〔というまがい物〕への避難場所でしかないように、桂馬には映っているのかもしれません。要するに、彼らが送る生活は、理想と現実の奇妙な混淆物なのです(それが普通の生活なのですが)。

だから、桂馬が住まうべく努力する、本当の理想〔の世界〕へは、追随する者のいない孤独な道となってしまいます(彼が「自分には絶望していない」と言うのは、このことと関係するのです)。彼が現実にゲーム攻略という理想をもちこんだとき、その考えを理解する者はいたとしても、劇中で同じ道を歩もうとする者は、そう出てこないでしょう。桂馬を「落とし神」として崇める(?)不特定多数の信者(ファン)や、彼に注目するギャルゲ業界のことが出てきますが、桂馬がそのことを詳しく知ることはないので、彼の孤独は一応その体裁を保つことになり、またそのことで彼の攻略の無二性が一層強調されるのです。

しかし、彼が追い求める理想という姿(キャラ)も、劇中では〔登場キャラと比べて〕味気のないように見えてしまい、むしろ現実のキャラ(←視聴者からは二次元)の方がゲームキャラのように見えてしまうのは、先の記事でも書いたことです。そうした中で興味深いゲームキャラが登場します。その子は岸本四葉(よっきゅん)です。彼女の見た目は、もし視聴者側の世界にいたとしたら、ゲームキャラとして、かなりのデフォルメがなされているように見えます。桂馬は彼女の性格面などに惹かれているようですが、このよっきゅんにはそれ以外の重要な役割が、この『神のみ』に関してあるようです。よっきゅんはその見た目からして、劇中三次元と二次元との差を、受容者に改めて明確にさせるような機能をもっているようなのです。また、すぐバグるゲームが登場しますが、これなどは現実の世界の不条理さを反映しているようです。このように、『神のみ』内に登場するゲームは、なにかしら現実と理想の間に立つ指標のようなものとしての機能を果たしているように思えます。それらこそ、時に理想(二次元)と思わせるキャラが、劇中で実際には現実(リアル―三次元)であると、視聴者に立ち返させる効果をもっているのです。

(成城比丘太郎)





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posted by 北川商店 at 12:53| エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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