・その私生活を知っても心に迫る詩
・究極の自己愛≒他者への愛
・鎮痛剤として。
・おススメ度:★★★★★
「いと暗き/穴に心をすわれゆくごとく思いて/疲れて眠る」
気分が落ち込んだ時は、暗い気分の曲を聴くといいという。同じ境遇の人間がいることによって共感し、安心を得るからだろうか。自分にとって啄木の詩は、そんな鎮痛剤のようなものだ。
「かなしきは/飽くなき利己の一念を/持てあましたる男にありけり」
今では良く知られているが、啄木の私生活はまるで滅茶苦茶だった。金遣いが荒く、芸者に入れ込み、家庭を顧みなかった。有名な「ぢつと手を見る」詩も、清貧の生活から生み出されたものではなかった。
「こころよく/人を讃(ほ)めてみたくなりにけり/利己の心に倦めるさびしさ」
たぶん自分の破滅的な性質を心得ていたのだろう。それでもブレーキは効かなかった。それでこんな短歌を詠んでしまうのだ。
「非凡なる人のごとくにふるまへる/後のさびしさは/何にかたぐへむ」
十分に非凡だった。2017年の自分の評価を知ったら、石川啄木はどう思うだろう。ほとんどの詩人よりはるかに詩集が発行され、繰り返し読まれ、教科書で無数の若者たちが学んでいる。
「誰が見ても/われをなつかしくなるごとき/長き手紙を書きたき夕(ゆうべ)」
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て/妻としたしむ」
「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きに行く」
その気持ちは良く分かる。自分に才能がある(はず)なのに、一向に社会的には評価されない。生活も友人の文豪に比べれば楽にならない。そりゃ、卑屈にもなるだろう。この鬱屈した気分の中で、できることと言えば、短歌だけ。しかも、それはお金に直結しない(金になるはずの小説も書いているのに、一般にはほとんど知られていない)
「ふるさとの山に向ひて/言うことなし/ふるさとの山はありがたきかな」
と、言いつつ、
「ふるさとの/麦のかおりを懐かしむ/女の眉にこころひかれき」
などと書いたりしてるのに、
「わが妻に着物縫はせし友ありし/冬早く来る/植民地かな」
ともかく。村上春樹ではないがいやはや。でも常にこう思う。
「こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ」
あるいは、
「何かひとつ不思議を示し/人みなおどろくひまに/消えむと思ふ」
と、ならないものか。そう思ってちくま文庫版の関川氏の解説を読んでいるとこう書いてあった。
「職業は、夢想を本職とし」「代用教員を副業につとめている。本職の方からは一文の収入も無いが」副業では八円の月給を得ている、と『林中書』にはある。(石川啄木/ちくま日本文学全集/解説より)引用
これはダメだな。ダメだけど私はやはり好きだな。
啄木は明治45年4月13日、困窮の果てに借家の中で、結核により没した(享年26歳)。
(きうら)

