スマホゲームが氾濫する現代、コンピュータゲームの価値はそれこそ「タダ同然」だ。スマホさえ持っていれば小学生でも気軽に「新作ゲーム」を遊ぶことができる。それが良いことかどうかは判断できない。
しかし、1983年は違った。一本のゲームが小学生の人生観を変えた。
私が初めてファミリーコンピュータで買ってもらったゲームは「ドンキーコング」と「ホーガンズアレイ」だった。ホーガンズアレイは光線銃という周辺機器がないと遊べないが、それは買ってもらえなかった。つまり無用の長物である。
それでも「ドンキーコング」の未来感は強烈だった。今までゲームセンターで遊んでいたゲームが家庭で好きなだけ遊べるのである。時間制限はなしだ。買ってもらった日は、確か11時ごろまで遊んで親に止められた。比喩ではなく、ほんとにファミコンのカセットを抱きしめて寝た。そこには、想像もしない世界が広がっていた。スマホやNintendo Swich、ディズニーランドやUSJなど比較にならない程の強烈な煌き。
もちろん、公園や近くの河原で友達ともよく遊んだ。しかし、いつもコンピューターゲームは無限の未来の象徴だった。中学生時代まではそう信じていた。
ピーチ姫もいない。マリオがただ、ジャンプして上に上がっていくだけ。多分、友達と何十時間も遊んだ。いま、遊ぶと他愛のない内容だ。いまさらわざわざ遊ぶ必要はない。
少年期の煌きはほとんどの人にあるものだろう。それがゲームだったことに後悔はない。いまでも、どこか別の世界へ連れて行ってくれる夢はコンピュータゲームの先にあると信じている。その可能性は十分あるはずだ。
※今後、古いゲームを語りつつ、懐古趣味的世界に浸ってみたい。怖い本とは関係ないが、その辺は実に曖昧にスルーしたいと思っている。